前回で述べたイベントにて会場から質問が飛んだ。
現代水墨画とは何を言うのか。
確かに何を言うのだろう。考えてみたけれども良く解らない。審査員の方々の意見もピンとこない。
ちなみに、上記写真3点がこの公募展で現代水墨画芸術賞に選出された。
共通点は見いだせない。
しからば、それぞれの各作品の他とは違う現代性とは何か。良く解らない。
水墨画に限らず、先人たちの脈々と受け継いできた技などに加えていつの時代も新規性をだそうと努力してきた。その努力をもって現代というならばすべてが現代と言えるのではないか。現在という時代に生きている者は、その時代を無視して生きることなどできない。
しかし、なんとなく古臭いと感じることはある。古典だから古臭いと感じるのか。
変化の激しい時代にあっては、ほんの2~3年前のものであっても古臭さを感じ差たりする。流行は繰り返すといわれるように、古さが新しさに代わることもある。
そもそも、現代水墨画賞なるものが必要なのか。
最近やたらと賞の数が増えて賞の意義をなくしているように思う。よく同業者や友達などから「この賞とあの賞ではどちらが上なんですか」と問われる。私には答えられない。
因みに、この展覧会では、順不同に述べると、大賞、大阪府知事賞、準大賞、尼崎市長賞、金賞、銀賞、特選、佳作、審査員特別賞、文化芸術賞、朝日新聞社賞、読売新聞社賞、毎日新聞社賞、神戸新聞社賞、芸術文化協会賞、日中文化交流協会賞、国際中国書法国画家協会賞、京都中国書画院賞、現代水墨芸術賞などがある。賞もそれぞれ1点ではなく、複数の物も多数あり、石を投げればいずれかにあたる状態である。これでは賞の価値はどこにあるのか。
重賞に値する作品を厳選し、賞の理由を明快にすることによって公募展の権威も高まるように思える。例えば、準大賞が3点もあるが公募展の規模からしてやはり1点がふさわしいのではないか。時にはその賞にふさわしい作品がなければ与えないことも必要である。
もちろん、賞の有無によって作品の価値が変わるのではないが、公募展とし、審査をするからには気になるところである。
安達嵐松